昭和41年09月18日 特別報酬委



 人間は誰でも肉体の休養というのが必要であるように、またそれが能率的でありますように、心にもやはりその休養が必要なんです。信心をさせて頂くと言うことは、この意味がなるほどだと合点がいくような信心でなからなければ、信心の値打ちはもう半減してしまうとおもうですね。信心が、昨夜の御理解でないですけれども、おかげのための信心で一生を終わってしまうような結果になります。
 ですからおかげを受けると言うことですから、その全然おかげをうけんと言うよりもいいでしょうけれど、それでは私、おかげを頂くための信心であってはならないです。所謂ほんとにここには信心のけいこに来るところと仰るのでございますから、信心のための信心、信心のけいこのための信心でなからなければ、力にも徳にもなりゃしません。おかげのための信心であってはね。
 同時にです、ただ今頂きましたように、肉体に休養が必要であるように心にも休養が必要だと。言うならばこうしてお参りをさせて頂く、御祈念をさせてもらう、御理解を頂く、心が清まる。今朝の御理解は清まるということでした、ですが、ま、このお話をこう頂いておる、御祈念をさせて頂いておりますと、何とはなしに心が清まって参ります。でしょうが皆さん、ね、心にまた安らぎを感じられるでしょうが。
 ですからその安らぎを感じ、または清まりを頂かせて頂くと言うことがです、心の休養であるのにもうまあ、かかわらずと言うともなんですけれど、であるのにね、お参りしても心に一つも安らぎも感じずに、清まりも感ずることなしに、ただ参ってツーっと帰ると、まあ参ってゆっくりしたって同じことです。ゆっくりしてもです、そういうものも何にも感じずに帰るとするなら、そりゃそれこそ馬鹿みたいですね。
 お参りしてよかった、一服させて頂いてさあやるぞ、というその一服の後には元気が出るように、そういう元気も何も心に感ずることなしに帰るとするなら、そりゃお参りの値打ちは、いわゆるおかげ信心ならそれでいいです。そりゃそれでおかげ下さりましょうけれど、ね、それでなかったら駄目、ましてやこうやって朝の御祈念を頂かれて、たいがいの方はそうでしょうが。
 朝の御祈念を頂かれて、そして引き続いてこうして特別報酬をなさる。私は思うんですこの頃あの特別報酬委員の方たちの祈願声明といったようなのが総会の時にあったんですけれども、ほんとにあの御造営成就のためにこうした同心の人たちが集まって、祈りを一つにして、勢信心のおかげを頂いて御造営が速やかに御成就に成りますようにという祈りをこなされる。ま、そのつもりでみんなが思い立った。
 そのつもりでこう言うことが思い立たれたんですけれども、実際銘々考えてみると、ほんとにそのために一生懸命御祈念させてもろうたり、そのためにこうして時間を費やしておるようにあるけれども、ほんとは私ども自身がおかげ頂くためですのというようなものを感じられないでしょうか皆さん。私はこの御理解、御理祈念をして御理解頂くたんびんにそれを思うんですよ。
 どうぞ御造営だと言ったようなことよりもですね、もうほんとにこれは、特別報酬委員の方たちだけにと言うような私は、ま、私自身もおかげ頂くんですけれども、は、これは特別報酬委員の方たちだけにと言ったような御理解でしょうが。は、頑張らにゃいかんですよ、御造営のことは、は、お供えせにゃいけませんよと言ったよなことじゃないでしょうが。私ども祈りはそこに置いてあるんですよね。
 椛目の祈りの中心にもなろうと言う様なです、ところに置いてあるんですけれども、実際(お育て下さるのは?)銘々の信心、所謂今日の御理解で頂くならば、愈々心が安らぎ、愈々心が清まっていくということだけしか大体下さらんように思うですね。だからあの、声明をなさるときには、本当にこうやって私ども特別報酬さして頂いているんですけれど、実は私ども自身が、いやあの祈念の会に残らなければ頂けないものを頂いておりますと言ったようなことをね、話してもらいたあったと私は思うんですよ。
 私この始まりのころに申しましたように、段々とこのいわばこの事の祈りが椛目全体に広がって行く様な願いを持ってと私は申しましたでしょうが。そんならです特別報酬の御祈念の会に出るとそういう素晴らしいものが頂ける。そんなら私たちもおかげ頂きたい、何か以外のものは入っちゃならんような感じすらあるような昨今ですね。これ銘々の信心の自覚と言うのがも少し深められなければいけないと思いますね。
 と言う事と同時にです、例えばなら特別の心の憩い、こうやって時間をより多く使われると、御祈念は一回でも余計に親先生を中心にしての御祈念がなされると。もう愈々清まっておった、愈々心安らいでおったその心がです愈々もうより清まる。より心が安らぐ。でなからなければならんのに、早う帰らねばと言った様なものが、もしお互いの心の中にあるとするならばです、その値打ちがない信心の稽古をしておる。
 そういう、ね、その憩いを頂き、心の上に吸収することがでけていないとするならば、ここに考えなければいけないと思うですね。これは一般の方でもそうです。お参りをしてくるんですよ。この人はえらい参ってくるけれども、ゆっくりはしていくけれども、果たして有難いものを頂いて帰りよるじゃろうか、お参りしてよかったと思うて帰りよるじゃろうか。ね、少しは心が清まって帰りよるじゃろうかとこう疑いたくなるような人達もいくらもあります。
 ただお参りがです、ただその一つの習慣のようになって、まいらにゃ気持ちの悪かけん参りよるというようなお参りの人たちもたくさんおります。お参りしなければ、たとえばみなさんが一生懸命の勤労なさった後に、さあ、お茶ですよ、さあ一服しますよと言うて、たばこの一服もさしてもろうたり、お茶の一つも頂きよると、次にまたさあ、やあるぞと元気が出るようなものがです、皆さんの心に頂けていないとするならです、ちょっとおかしいですよね。そうでしょうが。
 私今日の御祈念をさして頂きます時に、座った途端に頂きますのがね、あの、ピースの缶入りを頂くんですよね。たばこの。ま、最高のたばこであり、特にピースのあの缶入りと言うのは、あの香りが素晴らしいんですよね。こう言う素晴らしいですね、一服をさして下さりよるとですが、果たしてその一服をしただけの、は、やれやれ心が安らいだ、心が清まった、と言うようなものを頂いて、私だん特別な御祈念をしよる、といったような?があるならば、大変な間違いですよね。そう思われませんか。
 どうぞひとつ神様は最高の、ならその憩いのための一服のための、心のですよ、たばこを下さっておるんですから、それを頂いて、さ一服した、さ立ち上がろう、さやりましょうや、というものがこれから生まれていないとするならばですね、ちょっとやっぱり皆さんの信心をです、反省して見なければならんと言うことになるのじゃないでしょうかね。   どうぞ。